110歳の誕生日を迎えた中国漢語ピンインの父、周有光のコスモポリタン人生(第1回)
中国語学習者(中国人の子供も含め)にとっては無くてはならないピンインは、1958年に中国政府が制定した「漢語拼音方案」によって正式に作られました。その方案制定のリーダーが、この2015年1月13日に110歳の誕生日を迎えました。「天は私を連れて行くことを忘れてしまった」と語る周氏ですが、その人生は中華圏の人々からは「コスモポリタン(世界公民)」と呼ばれています。
戦前生まれの彼は、中国で最初に英語を公用語とした大学に通い、京都大学で学び、更にニューヨークで生活をする中で見聞を広め、今では、中国の社会・経済制度について事あるごとに、グローバルな立場からの痛烈な発言をすることで知られています。
その人生は、日本人の若者にとってもとても参考になる内容です。日本の若者が明治維新の前後、世界に渡り、見聞を広め、リーダーシップをとって社会体制を改革(革命)したのと同じ、もしくはそれ以上のものすごいダイナミズムとエネルギーを感じます。彼の歴史を紐解くことにより、今の日本の閉塞感を打破するヒントが得られればと思い、110歳の彼の誕生日を祝福したいと思います(彼個人は、誕生会を開かない主義を持つことで有名でしたが)。
「コスモポリタン」として、周有光はグローバル主義の思想を作り上げてきたことは偶然ではありません。口述作品である「逝年如水 周有光百年口述」の中では、セント・ジョーンズ大学で教育を受け、「漢語拼音(Pinyin)方案」を作り国際標準化、晩年はグローバル視点で中国を語るという、長く紆余曲折のある過程が記されています。この道程こそ、彼の思想の根底を形成し、概念を開放し、頻繁に海外へ出向き、世界の歴史、文化、宗教、考え方への理解を深めることにつながり、彼自身の研究と100年に渡る研究人生に関わっているのです。
1923年、当時17歳の周有光は、常州中学(中学・高校)を卒業し、2つの大学の入試を受けました。ひとつは上海セント・ジョーンズ大学で、アメリカのキリスト教協会が1879年に上海に開設した、当時中国で唯一全ての授業が英語でなされる大学です。もうひとつは、南京東南高等師範学校で、現在の南京大学です。(訳者補完:上海セント・ジョーンズ大学のキャンパスは現在華東法政大学として使われています)
周有光はセント・ジョーンズ大学に合格しましたが、学費の捻出に苦労し、一度は諦めかけました。しかし、彼の姉の同僚である朱毓君がその話を聞きつけ、彼女の母親から彼女の結婚式のために大切に保管していたお供え物を譲り受け抵当とし、周有光のために200元以上の学費を捻出し、彼がセント・ジョーンズ大学に入学することを援助したのです。
セント・ジョーンズ大学の2年間は周有光の人生にとってとても重要です。17歳から19歳までは、世界観が形成される時期であるからです。この頃について、周有光の息子である周暁平の認識はとても深いものがあります。
「この2年間、父がセント・ジョーンズ大学で教育を受けていたことはとても重要です。この2年もあって、彼は光華大学(同じくアメリカキリスト教協会系)に転籍し、卒業します。当時彼が受けていた教育が、そして行っていた研究が、その後の彼のグローバル世界観につながっています。彼の人生が他人と比べて比較的突き抜けていたのは、彼がグローバル主義者であったことが大きな要因だと思います。彼が中国文化に対して、あれがダメだ、これがダメだと言っていた内容は、当時としては非常に斬新なものでした。人は、現実を、世界の文化の発展における基本的な要素を理解していれば、世界に絶望することは決してないのですから。」
中国と西洋の融合、自由な大学教育
周有光の晩年の著作「圣约翰大学依稀杂忆(セント・ジョーンズ大学でのおぼろげな雑記)」の中で、彼のセント・ジョーンズ大学に関する感慨が書かれています。
セント・ジョーンズ大学の公用語は英語です。一度学校に入れば、そこはもう外国です。告知は全て英語。自然科学であっても社会科学であっても、外国の学問であり、教科書も英語、教師もアメリカ人が英語で授業が行っていました。ただひとつ、中国系のクラス、すなわち中国古文と中国史だけは中国人の先生が授業を行っていました。中国古文の教師は钱基博先生(著名な中国古文学者)でした。学生は万年筆を使いました。周有光は、「中国人が中国の筆を使えないとは。万年筆はとても重い。やはり筆を使おう!」と大声で叫び、中国人の学生たちは小声で「筆で国籍が分かる」と言っていたそうです。
校長のFrancis Lister Hawks Pottはアメリカ人でしたが、彼は浦東なまりの上海語を流暢に話すことができました。一度、彼は上海語で学生たちに次のような話をしました。「皆さん、部屋を離れる時に、電気を消して電力の浪費をしないようにしましょう。電力を使えば発電所は喜ぶでしょうが、学生は困窮するだけです。学生万歳!」と。彼は自分自身のクラスを持っていました。それは哲学史です。無味乾燥な内容のクラスでしたが、彼は学生たちに生活の活力を与えていました。周有光は現在に至るまで哲学史で教わった名言を覚えています。それは、ニーチェの「怒るな、怒るということは人の間違いを借りて自分を罰することに過ぎないのだから」という言葉です。
教師は「大英百科全書」を読むことを宿題として与えました。周有光は、初めてこのような専門書を読むことで、新しい世界が拓けたと感じました。
一人のイギリス人教師が周有光に対して何の新聞を読んでいるかを尋ねました。彼は、まず自分にとって、今日どの新聞が最も重要であったのかを問いかけるようにと言いました。次に、どの記事が最も重要であったかを自問することを求めました。更に、その新聞の背景について理解しているかを考えることを問いました。彼は答えることができず、図書館に行き、「大英百科全書」を読みました。そして、周有光は新聞の読み方、独立思考を身につけることができました。
二年生になり、大学は学生に討論型の「名誉賞」制度を通知しました。テストにおいて、監視役を撤廃する相互信頼の制度です。この制度の目的は、人格、道徳を養い、人間を磨くことにありました。この「名誉賞」制度は、クラスの中で、クラスメイトの全員の同意があって初めて実行されるというものでした。周有光とクラスメイトは何度も議論を重ね、申請をすることにしました。クラスメイトがお互いに問題を考え、テスト中に監視役はいません。しかし、誰一人としてカンニングをする人間はいませんでした。
お分かりのように、セント・ジョーンズ大学における2年間は、周有光のグローバル主義の基礎となりました。「五卅惨案(5/30事件、租界警備隊と学生・労働者が衝突し、学生・労働者に死者が出た事件)」により、彼は光華大学へ編入することになりましたが、セント・ジョーンズ時代は彼の思想の基本的な部分を強固に形成しました。
米国時代に見識の限界を広げる
1927年、光華大学を学士として卒業した後、周有光は光華大学付属中学、光華大学、及びその他の学校で教鞭を揮いました。1933年、張允和と結婚し日本に向かい、京都帝国大学(現在の京都大学)に入学、翌年に帰国した後に、光華大学で教授となると同時に、蘇州銀行にて職を得ました。彼の思想は「左に偏っており」、銀行業界における救国グループに参加することになりました。しかし、彼の革命思想は促進されることはありませんでした。
1946年12月、新華銀行で仕事をしていた周有光は、会社からニューヨークへ駐在する要請を受けました。彼が任された仕事の負担はそれほど重くなかったため、ニューヨーク大学とコロンビア大学のクラスを選択し、聴講生となりました。また、彼は毎晩ニューヨーク公共図書館で読書にふけり、22時の閉館時間まで勉強、研究を重ねてから帰宅していました。ニューヨーク時代、周有光は、多くの本を読み、多くの研究を行いました。彼によると、アメリカの図書館におけるサービスはとにかく便利で、アメリカの科学技術と経済発展の重要な一要素になっているという認識でした。
更に彼は6日間分の午後と夜を米国自然歴史博物館に行くことにしました。6階建てのビルを1階あたり1日かけて回りました。ランチが終わると博物館へ行き、18時まで熱心に回りました。その後、自然博物館の中で食事をし、更に見て回った後に帰宅しました。この6日間、彼は自然界の発展と人類社会の発展の歴史について、中国を含めた全世界についての諸々を整理しました。その後、彼は再び様々な見たいものを選択し、見に行きました。この自然博物館は単に自然を指しているのではく、自然とは広義なものであり、人類社会、人類の歴史を包含しているものでした。ニューヨークの学生たちは頻繁に博物館に足を運び、単に見るだけではなく、そこで授業を受けたり、専門家を呼んで講義を受けることなども行っていました。これは、ひとつの社会教育機関でした。周有光はこの光景を忘れることはありませんでした。このような場所は人が教育を受ける場所として、とても良い場所だったのです。
アメリカ時代、周有光は頻繁に旅行に行きました。旅行の目的はアメリカの経済や建設について学ぶためです。旅行には鉄道を使いました。鉄道でどこへでも行くことができました。周有光は、アメリカの鉄道がこれだけ発達しているのは、多くの小さな企業が建設に関わっており、それらの相互連携が非常に上手くいっているからであると考えました。この背景には、大規模なマネジメントシステムが存在し、それは中国には全く経験したことがないものでした。彼はまた、「布雷顿森林货币(ブレトン・ウッズ貨幣体系)」や、ケインズ経済学についても研究を行い、1949年に帰国後、復旦大学の経済学研究科にて、1952年までケインズ経済学を教えました。
1948年、ニューヨーク時代、周有光は新華銀行の指示でロンドンへ行く機会がありました。彼は妻と豪華客船「クイーンエリザベス号」にのり、3日かけてイギリスに行きました。その後、フランスとイタリアを訪問し、現地での共産主義政党の活動を見て回ると同時に、イギリス独立労働党のWilliam Beveridgeなどが提出した「ゆりかごから墓場まで」の中の「民主社会主義」宣言を目の当たりにしました。イギリスの独立労働党は、この方式をソ連のモデルではないこと、ソ連自体もこの方式を社会主義とは認めていないことを伝えていました。
これを見た周有光は、アメリカには戻らず、上海へ戻ることを決意しました。
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