中国の春節の風物詩「春運」に見る民族風習と、家族を大切にする伝統的価値観

2015年の中国の旧正月は2月19日です。既に昨日からほぼ全ての人に休暇が与えられており、毎年恒例の「春運(春節期間の帰省ラッシュ)」が始まっているようです。日本企業は欧米カレンダーである新暦で動いているため、中国の旧正月期間中でもビジネスは動いています。しかし、中国側は止まるので色々と苦労されている方や、企業がいらっしゃると思います。

とは言え、中国人にとっては、久しぶりに実家に帰って家族と再会することができるという一年でも最も嬉しい時期です。中国企業は長期の休暇をあまりフレキシブルに与えていないので、この季節に休む人が集中した結果「春運」が起こります。その「春運」の歴史を振り返り、アジア人としての旧暦の正月、春節に望む人々の気持ちや、その背景にある民族風習に目を向けていただければと思います。

中国网上(ネット)で農民の自作ラップが2chでヒット、更に中国メディアが取り上げる今時の構図


「春運」の歴史を振り返る:寿司詰めの30年(泉州新聞網)

2015年の「春運(春節の大移動のこと)」が始まった。2015年2月4日から3月16日までの40日間、37億人・回が春運の大移動に参加すると予想されており、これはアフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、オセアニアの総人口が一気に引っ越しをするのと同じ規模だ。

春運、当初は「春節客運」と呼ばれ、その後「春節期間の交通輸送」となり、簡略化されて「春運」と呼ばれるようになった。日常をどのように過ごしているかは関係なく、春運は中国の大地を舞台に繰り広げられる年に一度の大イベントであることに間違いはない。1984年「大春運」から始まって今に至るまでの30年、私たちはずっとずっとギュウギュウ詰めの中、焦る気持ちを抑え抑え、故郷へ向かったものだ。

中国鉄道部のスポークスマン曰く:2020年までに、鉄道網が完全に出来上がり、交通運行の発展に伴い、春運の超混雑状態は解消される。春運では、いつも通り平穏無事に実家に帰ることができるようになるそうだ。但し、多くの中国人に言わせれば、チケット問題が重要で、春節に実家に戻るチケットをどのようにして手に入れるかが最も大事なことでもある。

春運の様子

20世紀90年代の春運:1995年広州駅のチケット売り場で女性の乗客が泣き出した。ぎゅうぎゅう詰めで並んだにも関わらずチケットを買うことができなかった(左上)。若社長が車内でタバコを吸って当時のショルダーフォンを使う様子(右上)。「緑皮車(緑色の旅客車両)」は広州の旅客にとって捨て去れない記憶(左下)。窓から乗車するのは一般的なやり方(右下)

1957年 国務院が初めて春運の業務支持を開始

「春節客運」は1953年に問題を起こす。それほど厳重なものではなかった。「人民日報」のデジタルデータで検索をすると、1953年2月8日に初めて「春運」の文字が搭乗する。この旧暦だと腊月廿五(12月25日)に、人民日報にて「今年の春節の旅客は去年の同じ時期に比べて100万人増加した」と報道された。

1957年、春節期間の交通輸送は既に無視できないほどの大きな問題となっていた。国務院は初めて春節対策の業務指示を発表、企業や学校から従業員や職員に対して、早く帰ることができる人から帰ってもらい、遅く帰ることができる人には帰郷を遅らせるなどの指示を出した。軍人は春節期間に外出・旅行することはできない。一般の民衆とチケット争いをさせないためだ。

1981年、国務院は春節期間中の交通輸送業務を円滑に行うための緊急通知を出し、各直轄市、省、市、自治区の人民政府に対して春節に関する業務を最優先とさせ、旅客の流量管理のため、安全確保のため、交通関係当局に対してもサービス品質を高めることを通達。これ以降、春節の業務は国務院の直轄業務となった。

1979年 鉄道による春節の移動量が1億人・回を突破

春運の新時代。20世紀は1950年代は技術者の里帰りが主流。1970年代になると学生がその環に加わり、1990年代になると大規模な「農民工」が加わった。1954年から、鉄道部は春節の記録を採っている。当時の1日あたりの旅客量は平均で73万人・回、多い時で90万人・回で、期間は春節を挟んだ前後15日間だった。トータルでの旅客量は1954年の2,300万人・回から、1979年には1億人・回を突破、25年で4倍となった。

1983年1月3日の人民日報における新華社の情報によると:1983年の春節客運で1.24億人・回を記録し「今年の春節客運期間(1月13日から2月21日)に鉄道、道路、水路、空路を全て含めると6億人・回となることが予想され、去年よりも8,000万人増加するだろう」とのこと。

1988年 鉄道における春運ハイシーズンは63日間を記録

1954年の春運期間は1月21日から2月20日までの1ヶ月。1959年には1月15日から2月28日までとなり半月伸びた。1975年には約2ヶ月、1988年にはなんと63日と史上最長のハイシーズンとなった。

この年(1988年)、農民工のピークが爆発。人民日報が出した「全国毎日70万人が鉄道に乗る」という報道によると、春運から夏にかけて、主要鉄道路線の特急、直快旅客の平均乗車率は40%以上で、特定路線では100%以上が見られるようになった。その後、春節の圧力はどんどん高まり、1990年代から21世紀初頭にかけて、春運のハイシーズンは40日以上が普通で50,60日となることも少なくない。ごく最近では、春運ハイシーズンは40日程度に収まることが普通で、春節の15日前、春節後25日というところに収まっている。

2001年12月、貴州省貴陽市の農村の春運

2001年12月、貴州省貴陽市の農村の春運

2001年12月、貴州省貴陽市の春運。軽トラックに荷物を装って17人が乗り込み、警察からの取り調べを受ける

2001年12月、貴州省貴陽市の春運。軽トラックに荷物を装って17人が乗り込み、警察からの取り調べを受ける

21世紀 全国春運旅客量が20億人・回を突破

中国春運が世界最大の周期性の輸送行動としてギネスブック登録された。春運の規模の大きさは、中国大陸交通を解消することで解決を図ろうとしてきたが、中国政府が毎年のように各部署に要求してきたにも関わらず、春運のニーズを満たすことはできてこなかった。

1984年「大春運が形成された後、全国春運送旅客数は5億人・回を突破、1994年には10億人・回を突破、そして21世紀に入り2002年には17.3億人・回を突破した。

2003年春運期間が終わった後で人民日報が伝えたところによると、2003年には18億人・回となった旅客数の内、道路が16.7億人・回を占め、主力であることが分かった。2004年では総旅客数が18億人・回となり、1979年と比べて25年で18倍に膨れ上がった。

(中略)

2012年には30億人・回、2014年には36億人・回となり、今年は37億人・回を突破することが予想されている。

2008年1月31日、広州市にて1人の乗客が人混みの中で倒れ、乗客が頭越しに救出をする

2008年1月31日、広州市にて1人の乗客が人混みの中で倒れ、乗客が頭越しに救出をする

春運はなぜ発生するのか?

春運は中国大陸における旧暦の春節前後に発生する大規模な交通移動の現象だ。春運は一般的に春節前15日、春節後25日前後の合計40日間程度発生する。一般的な春運の定義は、中国大陸における省をまたぐもしくは省内での交通移動を指し、大陸と香港、マカオ、台湾との行き来はカウントしない。しかし、人々が口にする春運には2つの意味がある。ひとつは、春節前後の交通移動のこと、そしてもう一つは春運の「期間」のことだ。

発生の原因は3つ。経済発展がいびつであること。交通インフラの能力が不十分であること。普段の休みが少ないことだ。経済発展のいびつさが人口の大量移動をもたらし、その大量の移動を処理できる交通インフラが不十分で、更に普段の休みが少ないため人々の休みが春節期間に集中するということで発生する。

春運は、中国人の伝統的な価値観が、現代社会に及ぶことでつくられる。中国では春節は最も大事な祝日だ。一年の始まりであり、実家を離れて遠くで暮らす人々が、大晦日には全員集い一家だんらんの中で新年を迎える。「改革開放」以来、中国政府は就業の自由を認め、人間の移動についても制限を外してきた。結果、経済が未発達の地域から経済発達地区へ大量の人間が移動し就業した。故郷を離れて外地で働く人々は春節期間に集中して里帰りをすることで、民族大移動現象が発生するのだ。

この他にも、この時期は学校が冬休みにはいる時期でもある。多くの学校が春節前の2, 3週間前に冬休みに入り、春節15日頃に授業が再開される。そのため、故郷を離れて外地で勉強している学生も春節の移動群体の大きな割合を占めることになる。また、春節の休暇は一年の中でも最も長い休暇であり、一部分は旅行に充てる。旅行の移動負荷のピークと春節移動のピークは重なることはないものの、交通インフラに対するプレッシャーのひとつであることに間違いはない。

さて、もう一つの大きな問題が鉄道インフラについてだ。

中華民国当時の北平(北京)西直門鉄道駅

中華民国当時の北平(北京)西直門鉄道駅

中華民国当時、鉄道は既に大衆化された交通インフラだった。外地に出て働く者、勉強する者も非常に多かった。春節前後で、民国鉄道の旅客量は非常に増え、鉄道当局も対処せざるを得なかった。既に中国の春運は始まっていたのだ。

最も古い春運はいつ?

筆者が鉄道関係の資料を調べた結果によると、「中華民国」における春運の最古の資料は1927年の「広三(広州駅から三水駅まで)」鉄道管理局の報告がある。「旧暦の年末、旅客の往来の数は尋常ではない。本局は乗客に利便性を提供するために、車両本数を1本増やして対応した」との内容となっており、それ以降は具体的なタスクが記されている。旧暦の12月26日から28日にかけて車両を1本増やしたとのこと。中華民国の当時、既に春運は始まっていた。

南京・上海間での鉄道における春運はいつ始まった?

1934年の春節前に、京沪(北京と上海を結ぶ路線、この場合は南京と上海間)鉄道管理局もまた、臨時増便路線方案を通している。2月8日は旧暦の12月25日であったが、同路線が臨時増便され、正にこの歳に南京・上海路線での春運が始まったと言えよう。1947年には、「帰郷専用車」という列車を増便し、1月14日から21日まで運行させたということだ。

春運の主流の旅客は小規模メーカーや商人

中華民国における春運の交通量はそれほど多くはなく、「春節」も法定休日ではなかった。各大学、機関も休みではなかった。当時の大学生、特に実家から離れて学ぶ学生にとって、冬休みは里帰りする期間ではなかったのである。また、中華民国時代の春運における主流な客層は小規模の製造業や商人で、短距離の移動がメインだったそうだ。李同愈の小説「平浦列車」によると、当時の旅客像が分かる。「春節までわずか1周間、故郷に戻って家族団らんの中で楽しく過ごそうと思わない奴がいるか?商売をやっていても、ものづくりでも、みんな故郷がある。年末になれば、家に故郷に帰りたくなるものだ」。

作家が描く春運

「平浦列車」は春運期間の物語だ。春節まで一週間、北平(当時の北京)を出発した列車が天津駅にやってきて、まだ停車もしていない最中。プラットフォーム上にいる蟻の群れのような乗客たちが車両に這い上がっていく。「三等車は人がぎゅうぎゅうに溢れていた。こんなに混んでいる状態を見たことがない。針を刺す隙間さえ見えないくらいだ。最初に押しくらまんじゅうになったのは、健康そうな漢族の若者だ。身体はまるで荷物のようで、車両の通路を塞いでいた。次に見つけたのは、ドアの近く。ドアを閉めることもできない。一番良いのは、ドアの外、しがみついて立っていることだった」。


編集後記

如何でしたか?最後は中華民国時代まで遡り、小説の一節で余韻を残したまま終わりました。この季節に中国にいらしたことがある方であればすぐに想像できると思いますが、春節前のチケット争奪戦から始まり、実際に乗車して田舎に帰るまで、とにかく人、人、人です。どうしてそんな苦しい状態でも帰省するのかと言えば、それは中国人の家族との繋がりの強さを現しているとしか言いようがありません。むしろ、都会で厳しい生活に耐えられるのは、自分以外に唯一信じることができる家族の存在があるからとも言えるでしょう。中国人はよく「伝統的価値観」という言葉を使います。この価値観を守り続けている、どこか古風な彼・彼女たちの雰囲気を感じて頂くことができれば嬉しいです。

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