中国流:100%の世界で心を殺すのはやめましょう。皆で+50%の世界を創りましょう
僕の中では結構戸惑う会話があります。(喩え話です!!)
僕が親しくしてる人に、
「”正義”って相対的なものですよね。物事にも裏と表ってありますよね。だからこそ、正攻法で正面突破することってなかなか難しいでしょう?」
と聞いたとします。その答えとしてその人から、
「正攻法とかそういうレベルの話ではない」
と言われた場合です。
僕はこの類いの反応を貰うと、もう議論できないなと思います。いや、そもそも議論したくないのかもしれませんが、ここは僕の意見ですけどこの世の中、しつこいですけど、人と人って100%分かり合うことなんて無理だからこそ”社会”を形成していて、その”社会”って結局、合意形成システムを採用している以上、議論して妥協点を探るってことだと思います。
議論を成り立たせるには、辞書が手元にないのでアレですけど、自分がコンサルタントとして論理の世界に関わってきた経験からまとめると、
- テーマ
- 前提
- 言葉の定義
- 論理的思考
が必要だと思ってます。
テーマは誰でも設定できます。そのテーマについて議論しようとした時に、一番問題になるのが、残りの3つです。”前提”と”言葉の定義”は絶対的な基準がないので、議論をする前にテーマを設定した人が定義をしておく必要があります。”論理的思考”は技能なので学ぶことができますし、論理的思考が有る人が議論の内容を整理することもできます(いわゆる”ファシリテーション”ですね)が、”前提”と”言葉の定義”が、互いに擦り合っていないと、ファシリテーションも有効に機能しません。
先ほどの議論に戻りましょう。
- テーマ:
- 正義を実行することについて
- 前提:
- ”正義”には絶対的なものはなく、個人に依存する相対的なものである
- ”物事”には”表面的なこと”と”その裏で動くメカニズム”の両方があって機能する
- 論理展開:
- だからこそ、”正義を実行する”ためには、まず何が正義であるのかを議論する必要があり、かつ”正攻法”、”正面突破”で”表”の物事を動かすだけでなく、”裏”にあるメカニズムについてもメスを入れなければならない。
と言いたかった訳ですが、それに対する反論は、
- ”正攻法というレベルの話”ではない
ということです。そこで僕はこう考えます。
- ”正攻法”というのはレベル感の話なのかな?
- 僕は正攻法というのは、物事の”表”に対する話であって、”裏”のメカニズムに働きかけるものではないという前提を持っていたけど、違うのかな?
となります。そうすると次の質問は、
- ”正攻法”とはレベル感の話ですね。どのようなレベル感がありますか?
と続きます。こうやって議論って進めていくことになります。一見、面倒くさいですよね。でも、議論ってこうやって進めていかないとフェアじゃないんです。このやり取りを感情とは別のところで粛々とやっていかなければなりません。感情を入れた瞬間に、それは究極の”説明できない相対的な前提”になってしまうので。
安保法案についてのやり取りを見ていても、このルールを無視した感情のやり取りが非常に多く、見ていて”時間と心がもったいないな”と思います。特に”心”です。心が摩耗していくと、人は疲れて、どうでもよくなります。心が辛くなると脳の防衛本能が働き出し、そのテーマについて忘却したくなります。もっと言えば、本人自身がハッピーではなくなります。
だからこそ、”感情”とは切り離した形で(議論の中に感情が扱われていても良いですが)論理的に議論を展開するのです。そこから”建設的な妥協案”を見出すことにより、結果的にお互いがハッピーでいられるのです。
ちょっと飛躍しますが、議論して出てくるのは”建設的な妥協案”です。それは双方にとってゼロイチの結論を見出す世界とは全くことなります。議論は相手を罵倒することではありません。相手をやり込めることでもありません。相手の利害(前提)を把握し、そこと自らの利害(前提)との最大公約数を互いにどう見出すかということです。そうすることで、双方にとって+100%の結論にはなりませんが、+50%の結論を見出すことはできます。僕らはそうした世界に生きているのです。
世の中、色々な話(テーマ)があります。そこで色々なやり取りがされてます。そこで感情的になるとあまり良いことありません。その”テーマ”で、”前提”はなんだろうか、”論理展開”はどうなっているのか、と感情とは切り離して考えると心には優しいです。
皆さん、”議論”しましょう。
そして、互いにとってわずかでもいいのでプラスサムになる世界を創っていきましょう。