リー・クアンユー追悼:5世代に渡る中国の最高指導者たちとの交流の回顧録
シンガポールの「联合早报(シンガポール・プレス・ホールディングによるシンガポールで最大の発行部数を誇る新聞朝刊)」によると、当代で最も偉大な政治家の一人として、李光耀(リー・クアンユー)の影響力はとどまるところを知らない。彼はアジア、そして全世界の政治と外交局面で大きな影響力を行使してきた。
リー・クアンユーは無数の政治リーダーと面会してきた。その中でも最も人を驚かせるのは、中国の五世代のリーダーたちと交流を持ってきたことだ。1976年に初めて中国を訪問して今に至るまでの39年間、リー・クアンユーは33回も中国を訪問し、毛沢東、鄧小平、江沢民、胡錦濤、習近平の5人と面会している。中国で五世代に渡る政治的指導者と面会することができた人間は非常に珍しい。彼と中国の指導者たちとの交流は、単にシンガポールと中国の関係のみにとどまらず、アジア、そして世界に大きな影響を与えるものだった。
リー・クアンユーと毛沢東
シンガポールを建国して総理となったリー・クアンユーは1976年5月10日に中国を訪問した。初めての中国訪問であり、シンガポールと中国の関係において歴史上最も重要な出来事の一つである。中国を訪問する最大の目的は毛沢東に会うことであったが、当時の毛沢東は病の最中にあったということもあり、この会見は世界中の注目を浴びた。
リー・クアンユー総理の中国行きにはあまり知られていない背景がある。中国訪問の6ヶ月前、タイ首相が中国を訪問して帰国した際に、リー・クアンユーに中国にぜひとも来て欲しいとする周恩来総理の伝言を携えていた。それに対してシンガポール政府は反応をしなかった。9月にリー・クアンユーがイランを訪問した際にも、イランの首相から周恩来総理からの同様な伝言が伝えられた。イランの首相曰く、時間は限られている、断るべきではないと。実際に、周恩来は重病を患っており、翌年の1月8日にこの世を去ることとなった。5月にリー・クアンユーが訪中した際に、周恩来に会うことは叶わなかったのだ。
リー・クアンユーはシンガポール訪中団の代表となり、外交部長、財政部長、文化部サービス次長、教育部政務次長、リー・クアンユー夫人、そして娘を随行させた。一行は1976年5月10日午後に北京に到着、時の総理であった華国峰と3度の会談を行った。
5月12日午後に二巡目の会議が行われることが決定していたが、会議直前に中国側から突然、毛沢東国家主席がシンガポール訪中団と面会したいという知らせが入った。当時の中国の状況では毛沢東が会うということは非常に光栄なことであった。リー・クアンユー夫人と娘はその時、頤和園を観覧していた。中国側の接待要因も同じく遊覧している最中であった。彼女たちも含めて、中国側の車で中南海の中にある毛沢東居宅の住所まで送り届けた。毛沢東は既にリビングルームに座っており、リー・クアンユー一行が部屋に入ってくる際に、2人の女性アシスタントに助けられて起き上がった毛沢東は、来賓のひとりひとりと握手をして歓迎の意を表した。
毛沢東を前した一行は非常にかしこまって座っていた。当時の毛沢東は歯の一部が抜けており、はっきりしない口調で15分ほど話をした後に、1名の中年の女性が中国普通語により高らかな声で繰り返した。これは、中国側がシンガポールからの客人が毛沢東の湖南訛りを聞き取ることは容易ではないと判断したためだ。その内何度かは、何名かの女官が文字を書いて毛沢東にそれを見せ、毛沢東の意思をはっきりと確認をした後に、英語で通訳するという場面もあった。
その日の会見では、毛沢東の話にはそれほど実質的な内容は含まれておらず、主にシンガポール代表団に対する敬意を表したものであった。毛沢東は会話をするのが困難だっただけでなく、脳も以前ほど活性化しておらず、精神力、体力共に大分弱まっていたという。
リー・クアンユーと鄧小平
1976年にリー・クアンユーが北京を訪れた際に、鄧小平は「四人組」の中でも脇役の位置づけであった。「四人組」が解散した後の1978年に鄧小平はシンガポールを訪問した。
「リー・クアンユー回顧録」の中で、リー・クアンユーの当時の思い出として次のように書かれている。「1978年11月、74歳の小柄ではあるが快活な老人が米色の服を身にまとい、ボーイング707から降りてきた。彼の足取りは非常に軽快で、歓迎の儀式を見た後で、私と一緒に車に乗り、総統府の迎賓館に向かった。当日の午後に私たちは内閣会議室にて正式な会談を行った。」
2時間30分の会議の中で、鄧小平はソ連が世界における脅威となっていることを話し続けた。彼は戦争に反対する国家と人民が手を組んで戦争に徹底的に反対する必要があることを理解していた。彼は毛沢東の話を引用し、団結が必要であることを説いた。
宴席で、鄧小平はリー・クアンユーに対してしきりに訪中することを勧めた。リー・クアンユーは感謝の意を表した上で、中国が文化大革命から回復するのを待って訪中すると説明した。それは大変な時間を要する、と鄧小平は答えた。すると、リー・クアンユーは、「あなた方は真の意味で国情を回復しなければならない。そして、それはシンガポールよりもずっと良い成果を出せるはずです。問題はないのです。何と言えば良いでしょうか。私たちは福建省や広東省から来たということだけではありません。中国で農地を失った農民の末裔でもあります。一方で、あなた方の一部は私たちがいなくなった後の官僚や文人の後継者です。」これを聞いた鄧小平は言葉を失った。
この会談の中で、リー・クアンユーは鄧小平に、中国のラジオ局が直接東南アジアの国家に住む華人に向けて革命を呼びかけていることが、東南アジア各国の政府から見れば、非常に危険な転覆行為であることを説明した。リー・クアンユーは、恐らく鄧小平が、中国が世界の強国としての態度を貫き、各国政府を通り越して、直接国民たちに呼びかけることまでは考えないだろう思っていた。
「(この話を聞いた)鄧小平の表情と姿勢からは大きな驚きが見て取れた。彼は私の話がひとつひとつ嘘ではないことを理解していたのだ。」リー・クアンユーは、「鄧小平の態度が1976年に華国峰総理と会談した際の、私の言っていることが全く理解できないという状態とは全く異なっていた」と言う。彼は突然、リー・クアンユーに対して「私はどうすれば良いと思いますか?」と問いかけた。これにはリー・クアンユーも驚き、「私は今まで共産党のリーダーでこのような人を見たことがない。事実を受け入れて今までの考え方を改め、更に私にどうすべきかを問うてきたのだ。」リー・クアンユーは少し考えた後で正直にこう言った。「中国は必ずマレーシア共産党とインドネシア共産党が華南地区で行っている(東南アジア諸国向けの)ラジオ放送を止めさせるべきだ。」と。
この時のリー・クアンユーの鄧小平に対する印象は深刻なもので、手記の中で「鄧小平は私が今まで面会したリーダーの中で最も深刻な影響を与えた一人だ。5フィートほどの身長だが、”人の中の人”だ。既に74歳になろうとする中で、不愉快な現実を見ても、彼は自分の考え方を変えることができる。そして実際に2年後、中国はマレーシアとタイにおける共産党の活動を整理した後で、ラジオ放送を停止させたのだ。」
リー・クアンユーは以前人民大会堂で痰壺が設置されているのを見たことがあったので、鄧小平が座る傍らに白い痰壺を準備しておいた。リー・クアンユーは鄧小平が痰壺を使用する習慣があることを知っていたのだ。また、シンガポール総統府の規定によれば、空調が設置された部屋は禁煙であったが、鄧小平に対しては特別に喫煙を許可した。「中国歴史上の偉大な人物を迎えるにあたっての準備である。」ディナーの席上で、リー・クアンユーはキセルを鄧小平に勧めた。婦人の話では医者に禁煙を勧められており、鄧小平自身もタバコの量を減らしていたととのことであったが、結局その夜、鄧小平はタバコを1本も吸うことはなく、痰壺を使うこともなかった。鄧小平は鄧小平でリー・クアンユーがタバコの煙に敏感であることを知っていたのだ。
鄧小平がシンガポールを離れる前に、リー・クアンユーは再び総統府にて鄧小平と20分ほど会談をした。鄧小平は1958年以来の訪問ということで非常に嬉しそうであった。彼はシンガポールの変化がとても非常に大きいものであると感じた。彼は第一次世界大戦の機関中にフランス、マルセイユの大学に進みその他仕事をする道すがら、シンガポールを経由したことがあった。当時のシンガポールは植民地だった。
リー・クアンユーと江沢民
江沢民が中国最高指導者であった期間、リー・クアンユーは複数かい会談を行った。2人はシンガポールと中国の関係、台湾海峡問題、蘇州工業園区(園区と呼ばれる蘇州の地区、シンガポールが投資した)などについて深く交流を行った。2010年、リーダーの職務を既に降りていた江沢民は実家のある揚州にてリー・クアンユーを迎え、旧交を温めた。
リー・クアンユーの著作の中で、シンガポールのリーダーたちが中国語を話すことができることは、シンガポールの優位点であると書いている。リー・クアンユーも中国語で江沢民や台湾の前の総統である蒋経国などと打ち解けた関係を構築するに至った。
リー・クアンユーは回顧録の中で、中国の指導者たちが米国や西側社会に対する知識が不足した際に、リー・クアンユーを宴席に招待し、海外の事情について討論をしたと言う。「彼(江沢民)は私の手をとって、”西側社会が私たちを本当にどのように見ているのか教えて下さい”と良く話した。」
リー・クアンユーは挨拶を交わす際だけでなく、敏感で重要な話題になった際にも中国語で会話をした。1994年5月に、台湾地区の指導者であった李登輝が吴作栋(ゴー・チョクトン)を通じて、中国大陸、台湾、シンガポールの連合で船会社を作り、両岸での交易を行うということを提案した。シンガポールは象徴的に株を持つ計画だった。李登輝はシンガポールに仲介に入り、大陸にこのチャンスを説得する役割を求めた。
数カ月後、ゴー・チョクトンが提案書の草案を作成。リー・クアンユーは、前後する形で李登輝と江沢民に草案を見せた。李登輝は提案書に同意した。数日後、リー・クアンユーは北京人民大会堂にて江沢民と会談。江沢民は「私には通訳がいるが、時間を無駄にすることはやめましょう。あたなは英語を話して下さい。私は英語を聞き取ることができます。そして私は中国語を話します。あなたは聞き取ることができますから。分からないことがあれば、通訳に助けてもらいましょう。」と言った。
これにより2人は相当に時間を有効に活用することができた。議論は白熱し、結果、江沢民はリー・クアンユーに対して李登輝からのいかなる提案も受け付けることはできないとした。李登輝が4月に訪問を受け入れた際に、彼は自らを人民をエジプトから約束の地に連れて行くメシアであると例えたことが原因だった。
リー・クアンユーと胡錦濤
2002年当時中国国家副主席であった胡錦濤がシンガポールを訪問、リー・クアンユーと会談した。胡錦濤はリー・クアンユーをして「中国の古い友人」と称し、シンガポールとの関係に力を尽くすということを表明した。リー・クアンユーの胡錦濤に対する評価は上々で、2003年に日本経済新聞の取材を受けた際に、中国共産党の新リーダー胡錦濤を称して「思考は緻密、多くを語らず、地に足がついており、記憶力は非常に強い」としている。
リー・クアンユーと習近平
現在の中国国家主席であるシンガポールとの関係は非常に深い。習近平が福建省で仕事をしていたころ、4回もシンガポールを訪問している。2007年に中央政治局常務委員に選出された後に初めてリー・クアンユーと面会する機会を持った。
面会後、リー・クアンユーは習近平のことを賞賛し、「彼は私に気を大きくさせる。寛い思考ができる人物だ。問題を熟考し、知識人の話を鵜呑みにしない。これが私が彼に対して抱いた第一印象だ。彼は困難な人生を歩んできた。小さな頃、下郷(都市部の知識分子が農村に派遣され労働を行うこと)を行い、1969年に陝西省に派遣され、それでも彼は這い上がってきた。私の目には彼とネルソン・マンデラは同等で超一流の人物であると思う。」
2010年、時の国家副主席であった習近平はシンガポールを訪問。リー・クアンユーと一緒に鄧小平の銅像の除幕式を共催した。式典直前に行われた会談は白熱し、式典の開始時間は20分遅らされることになった。リー・クアンユーはホストとして習近平を迎え、習近平は礼節通りリー・クアンユーを先に座らせた。儀式では、習近平は細心の注意を払いリー・クアンユーに手を貸し、終了後は再び握手をした。習近平の「あなたにお目にかかれて本当に嬉しかった。」という言葉には年長者に対する畏敬の念が現れていた。(鳳凰咨询)