中国流:僕らにカリフォルニアの太陽なんて無い! 昨今の起業煽りに対する違和感
最近の起業ブームの煽り内容に対する違和感
どうも最近、若い人たちに対する煽り記事を見ていて、しっくりこなかったことがあります。グローバルになれ!起業しろ!シンガポールへ行け!最初からGoogleのようにグローバルで考えろ!的なノリです。もっと辛辣な書き方になると、日本からはグローバル企業は生まれない、\(^o^)/オワタ的な記事もたくさん見かけます。爆速で成長する中国のインターネット業界を中心とした動きをウォッチする完全に健常者を逸した環境にいる中で、また日本でインターネット系の仕事をしている人と話す中でその違和感のポイントと、日本が再びチャンスを持ち得るポイントについて少し考えてみました。
こういう感じです。
おわかり頂けますよね。
うんうん(笑)。
そもそもアジア企業はGoogle, Facebookのようにはなれない
インターネット時代を前提においています。Google, Facebookはアメリカはカリフォルニアの爆烈陽気な太陽の下、脳天気な奴らが、「俺たち世界を変えちゃって、もっと良くしちゃって、サイコーハッピーロケンロー!」的な考え方でサービスを作っているのです(①の領域)。ここにはキリスト教に代表されるユダヤ教から派生した一神教の流れがあります。一見関係ないように思える宗教ですが、人々の価値観や考え方、行動規範に強く影響を与えていることを否定する人はいないでしょう。一神教は”絶対的な神との対話の中で世の中を良くすることに価値がある”宗教です。相対的なことは実はあまり関係なく、絶対的な原点から導き出された目標について、自分と世界を支配する絶対的な神との対話で物事が進みます。もっと分かりやすく言えば「俺が神様と対話して素晴らしいと思ったことなんだから、本質的なサービスを創ることができれば世界でも使われるし、使った結果として皆ハッピーになるはず」という思考が成立します。結果として彼らが創り上げるのは、極めてプリミティブでかつグローバルな基盤的サービスです。Facebookのコミュニケーション、Googleの検索機能です。誰もが使うシンプルな機能をグローバルに提供しています。
アジア企業はもっとジメッとした湿気を帯びている
一方で、中国はもちろん日本も含めてアジア企業はどうでしょうか。日本と中国で全然違うじゃないかと言う人はいらっしゃると思いますが、グローバルで考えた時には本質的には似た部分の方が多いと思います。それは目の前にあるサービス(財・付加価値)をしっかりと創り上げることに夢中になれる人たちであるということです(②の領域)。手段はどうであれ!です。まずはローカルで身の回りにある問題や課題に向き合って、それを改善していくアプローチに長けています。この点、日本人は中国人を上回っているという人はいるかもしれませんが、あらゆる面でキャッチアップされてきており、日本を上回っている部分もあります。アジアには一神教のように万人が共有する絶対的な価値観というものが強くありません。それよりは、周辺にいる対象と対話をする多神教的な価値観が主流にあります。中国人であればそれが家族や友人、日本人であれば極論すると人よりも自然や事象と対話をするのです。そのため、対話は相対的なものとなり、グローバルで通用するようなサービスが最初から意識され、生み出されるということはありません。この違い分かりますか?
インターネット企業に見る違い
当ブログでは何度も触れていますが、GoogleやFacebookはグローバルにユニバーサルサービスを提供し、広告収入を広く浅く得るモデルであり、ローカライズされた深掘りサービスを提供していません、あるいは提供することができない、することを最初から目的としていないとも言えると思います。膨大なMAUを獲得しているのは①の領域の企業で、共に10億MAUを超えています。しかし、ARPUは高くないはずです。一方で、wechat(テンセント)や淘宝網(アリババ)は、まずは国内でサービスを深掘りする方向に向かっています。国内でのMAU争いに留めつつ、その後はARPU獲得に向かうのです(②の領域)。wechatはコミュニケーションの基盤で、淘宝網は決済の基盤(Alipay)で十分なMAUを獲得したところで、多様なサービスの提供、個別サービスのグロースハック(終わりのないUXの向上)を地道にやっていくのです。ですから、中国のインターネット企業や本国と同じモデルで闇雲に海外展開をしません。テンセントのwechatの付加価値サービスの大半を日本では受けることはできません。まずはとにかくローカルでサービスをしっかりと固めていくということです。ここにアジア企業のチャンスがあると思っています。①の道ではなく、②の道です。
日本は実はサービス業大国ではなく、奴隷大国
日本企業はどうでしょうか。日本の製造業は国内でものづくりをしっかりとやって、海外でそれを展開して成功しました。日本のブランドで世界に通用するのは殆ど製造業だと思います。製造業の付加価値はつくりこみができますし、消費者にも分かりやすいのです。自動車のように膨大な部品点数の中に付加価値を織り込むことによって、消費者にモノの価値は伝わっていくのです(極論ですが)。しかし、サービス業は”人”が中心となりますから、なかなか難しいものがあります。中国と日本ではサービス業に対するアプローチが異なります。中国にサービスという概念が出現してからまだ50年も経っていません。そもそも売店で何かを買ったら、おつりは投げ返されてきた国です。ですから、サービスに対して対価を払うという考え方が割りと明確にあります。レストランなどでも”サービス料”を別途徴収するケースも見られます。日本は昔から人に対しての礼節を重んじてきた結果、それがサービスと混同され、当たり前のものとして捉えられるようになりました。ですから、サービス業はそれ自体を生業にすること自体で一段低く見られる傾向が無意識にあるように思います。はっきり言えば、サービス業ではなく個人に依存した”下請け業”、”奴隷業”なのです。相対的な価値観の中で、対象に対してしっかりと向き合ってきた結果、搾取される側になったということです。その結果、サービスをする側も卑屈な態度を採るようになり、本来やるべきこともやれなくなってきています。最悪のスパイラルです。
人ではなく仕組みによるサービス業の再構築
日本が再び元気を取り戻すためには、個人の礼節や人格に依存した下請け奴隷業国家から脱して、仕組みによる本来の意味でのサービス業の立ち上げを行っていくこと、これに尽きると思います。今既にある仕組みの中でそれをより良くしようという発想である限り、それは誰かを犠牲にすることになります。なぜなら、今の仕組み自体が個人の犠牲によって提供されている”財”なのですから。ある日、大学生から聞かれました、”人が集まるからカフェをやりたい”。否定はしませんが、もう少し仕組み化して考えて欲しいです。大学生の内にカフェをやった結果として、彼の時間とお金は固定されますから、その後のスケールと選択肢がかなり小さくなります。それを分かった上での選択であれば構いませんが、今ある仕組みの中で疑うこともなかったのであれば、一度考えなおした方が良いです。時間とお金が固定される仕組みではなく、それでも継続的に回っていく新しい人が集う”場”の形ってなんだろう?とか。
カリフォルニアの脳天気な太陽などないのです
ということです。僕らにはそれはない。だからこそ、まずは身の回りのサービスを磨いていくこと。そしてそれだけでなく、人の犠牲に依らない、仕組みを新しく作っていくこと。そのためには、貪欲にテクノロジーを”利用”していくこと。これこそが、日本の未来を作っていくことになると思います。人とお金の固定化については面白いポイントなので、乞うご期待。