架空の物語「37年」

株を売らない資本家と長野の町工場。三代にわたる物語。

この物語はフィクションであり、実在する人物・団体・企業などとは一切関係ありません。ただし、株式の設計と配当の数字等は、実際に検討している設計値に合わせています。

37年後の朝に配当を手放す投資家

2064年3月の朝、山藤製作所に一通の通知が届きました。
差出人は37年前に同社へ出資し、株式を持ちつづけてきた事業会社です。

「貴社の経済株について、これまでにお支払いいただいた配当の累計額が出資額の3倍に達し、取り決めで定めた条件を満たしました。本日をもって、当社が保有する経済株は、無配当・無議決権の劣後株式に切り替わります。」

余計なことは書かれていない、端的で事務的な一枚。
ひとことで言えば、「配当の累計が約束の額に届いたので、私たちはもう配当を受け取りません」という旨の通知書です。
いま、この会社で働いている人たちは、末尾に押された判の主のことをよく知っています。


このとき、その通知の差出人の事業会社でも、日常とは違う出来事が起きていました。

その会社は、かつて山藤製作所への出資を決めた、御殿場兄弟社という三代続く会社です。37年前の出資にまつわるこの通知に、判を押して送ったのは創業者の孫である御殿場響(ひびき)でした。響は電子決裁の時代になっても、この一枚だけは紙に判を押すと決めていました。

「受け取るのは今日まで。……ここからは、手渡す番だな。」

山藤製作所からの配当による入金は、毎年3月に振り込まれていました。御殿場兄弟社の社内では、その入金はいつからか「山藤さんの分」と呼ばれるようになっていて、業績の悪い年には、それで賞与を出したこともあります。

ですが、御殿場兄弟社にとって、山藤製作所は単なる出資先ではありませんでした。37年前、出資を決めたときの稟議書が、いまも書庫に残っています。財務の分析、事業計画、リスクの検討。担当者が三日かけてまとめた分厚い書類の、いちばん最後の決裁欄に、創業者の御殿場聡(さとし)は判を押し、所見欄にたった一行だけ書き込みました。

「決算書ではなく、あの40秒を見て、決めた。」

「あの40秒」とはなにか。
その話は、37年経ったいまも社内で語り継がれています。

初代の聡も、二代目の瞬(しゅん)も、山藤製作所の工場を何度も訪ねてきました。年に一度の全社合宿でも御殿場兄弟社は代々、席をもらってオブザーバーとして参加するほどでした。

山藤製作所の売上が落ちて利益が赤字すれすれまでやせ細った時には、口を出したくなったこともあります。しかし、出資者とはいえ経済株しか持たない御殿場兄弟社にできることは、翌年3月の配当を待つことだけでした。

――いえ、厳密に言えば、それだけではありませんでした。毎年12月、御殿場兄弟社の社長あてに、山藤製作所から一枚だけ届く手紙があったのです。社内では「十二月の手紙」と呼ばれていました。書き手は山藤製作所の社長。送る前には、山藤製作所のすべての社員が目を通していたそうです。

そこには誰が何をしたというような個人の名前は入りません。書かれているのは、その年に何をやめたか、会議で発言した人が何人になったか、そして、まだ言えていないことが残っていないか。1枚目から今に至るまで、手紙はぜんぶで37枚。順番に綴じられ、社長室の棚に保管されています。

この37年ものあいだ、配当が止まった年は一度もありませんでした。そして、その累計額が出資額の3倍を超えたのです。


今日、株を売って利益を得ることも経営に口を出すこともなく、37年間ただ配当だけを受け取り続けてきた投資家としての御殿場兄弟社は、当初の約束どおり、その権利を手放しました。

この瞬間から山藤製作所が生む利益はすべて山藤製作所で働く人たちのものとなったのです。

「売らない投資家」が現れた37年前のこと

2027年6月当時、山藤製作所は長野県で金属加工を営んでいました。従業員は42人。オーナー企業でもある山藤製作所の社長、山藤公一(こういち)は当時68歳でした。
公一は、創業者だった父から28歳で会社を継いだ二代目です。継ぐかどうかを、自分で選んだ覚えはありませんでした。
だから公一は、この会社を子どもには継がせないと決めていました。自分が背負ってきたものを、そのまま子どもに渡したくはない。会社は、ここで働く人たちのものであってほしい。それが公一の願いでした。


売却を決めた社長のもとには、すぐに3社の買い手が現れました。

3社の提案は、どれも同じでした。5年で企業価値を上げて、上場かM&Aで売却(エグジット)する、と。

悪い話ではありません。社長の手元には、十分な金額が残る計算でした。しかし、そこから5年後、会社はまた誰かに売られることになります。

ところが、その後に現れた株式会社グルーが社長に告げたことは、先の3社とはまるで違っていました。

「社長、私たちは普通の投資家ではありません。上場も売却(エグジット)も、永遠にしません。かわりに私たちは、山藤製作所で働く人たちとその関係者も含めた関係性に全力でかかわって、潜在力を最大化します。いわゆるハンズオンとは違います。この会社の中で、まだ声にされていない想いや感情に正面から向きあい続けるのです。社長、その覚悟はおありですか?」

出資を決めた40秒

公一はグルーの問いに、その場では答えませんでした。そのかわり、「決める前に、うちの社員の話を一度聞いてやってほしい」と、そう頼んだのです。


2027年6月。公一の頼みを受けて、グルーは山藤製作所で半日のワークショップを開きました。

それはグルーが「関係性のデューデリジェンス」と呼ぶ、出資前の調査のひとつです。投資をする前に、財務の数字だけでなく、会社の中の人と人との関係を確かめるためのもの。テーマは「これからの山藤製作所」。社長の引退と会社の行く末について社員が顔をそろえて話しあう、はじめての場でした。

会場は、工場の二階にある休憩室です。油の匂いが残る長机を壁際に寄せ、パイプ椅子で大きな輪をつくりました。輪に座ったのは、公一と取締役たち、そして各工程の社員をあわせて30人ほど。

輪の正面には、グルーの二人が並んで座りました。グルーを立ちあげた共同創業者の、四十万英作(しじま えいさく)と森岡克己(かつみ)です。

会場にはもうひとり、壁際の椅子に腰かける男がいました。御殿場兄弟社の社長、御殿場聡、当時58歳。グルーが「出資者になるかもしれない方です」と紹介したその男は、半日のあいだ、ほとんど口を開かないまま、場で起きていることを静かに見つめていました。


ワークショップがはじまって数時間、昼を過ぎた頃のことです。入社7年目の班長である百瀬啓(ももせけい)が突然、すっと立ちあがりました。

「5年前から、言えずにいたことがあります。……うちのストーブ、売れてないですよね。みんな、わかってます。でも毎年、社長の前では『今年こそ』って……たしかに自分も、ずっとそう言ってきました……だけど……社長、すみません。」

休憩室が、しんと静まりました。助け舟を出す人は誰もいません。

百瀬は、公一がはじめた自社ブランドの薪ストーブを5年前から組み立ててきたチームの班長でした。公一は腕を組んだまま、百瀬を見つめていました。

そのとき、森岡が沈黙を破って、静かに言いました。

「いま、この場が凍りついているように感じます。ここで、まだ語られていないことはなんでしょうか。いま出てきた言葉は、百瀬さんひとりの言葉ではありません。この“場そのもの”から出てきた言葉なのです。」

その言葉を受けても、参加者は誰ひとり発言しないまま、沈黙が続きました。しかし、いま話されたことの意味は、その場にいた誰もがどこかでわかっているようでした。

聞こえるのは壁にかかった古い掛け時計の秒針の音だけです。聡は、気づけばその秒針を目で追いかけていました。秒針が十二を過ぎ、八の数字にさしかかったときです。百瀬が、誰に促されるでもなく、もう一度口を開きました。それをきっかけに、ひとり、またひとりと声が続きます。ただ公一だけが、その日、最後までひとことも発しませんでした。

聡が山藤製作所への出資を決めたのは、その日の夜のことでした。

聡は、経営企画が三日かけてまとめた出資の稟議書を開き、最後のページの決裁欄に判を押しました。そして所見欄に、一行だけ書き込みました。

「決算書ではなく、あの40秒を見て決めた。」

そして同じ夜。

公一もまた、会社を託す先を決めていました。

一風変わった株主たち

山藤製作所に金銭で出資をしたのは、グルーが連れてきた御殿場兄弟社の1社だけでした。

その取引は、発行済株式の大半を社長の山藤公一から買い取るかたちでおこなわれました。
ただし、その株は「経済株」と呼ばれるあたらしいもので、会社の方針を決める投票権(議決権)を持ちません。彼らが手にするのは金銭的な配当を受け取る権利だけで、その水準は、出資額に対して年8%が目安とされていました。もちろん赤字決算の年に金銭的なリターンはありません。

議決権は「スチュワード株」と呼ばれる種類株にだけ与えられました。グルーと、山藤製作所の次期社長になることが決まっていた取締役の宮坂勇(いさむ)が、1株ずつ持ちます。スチュワードとは、人から預かった資産を、その人に代わって管理・運用する役割と責任を負う人のことです。

配当そのものは、その大半が経済株を持つ御殿場兄弟社に割り当てられていました。次期社長の勇とグルーが持つスチュワード株は、譲ることも相続することもできません。通常の株式であればセットになっている「議決権」と「配当を受け取る権利」、この2つが、株の種類ごとに切り離されている状態です。

「黄金株」と呼ばれる1株。これは、株式を御殿場兄弟社に売却した元社長の公一に割り当てられました。この1株は、社名や理念の変更、そして会社の売却について「拒否権」を持ちます。議決権を持つスチュワードであるグルーと次期社長の勇が合意した内容であっても、これらを拒むことができるのです。

社員たちも、従業員持株会を通じて経済株を持ち、配当の一部を受け取ります。そして、投資家が卒業する日に議決権を受け継ぐのは、この持株会だと、最初から決められていました。

こうして、一風変わった株主たちが誕生しました。

株式の関係図 (物語版)

業績より先に変わりはじめたもの

新体制で歩みだした山藤製作所ですが、業績は当初、ほとんど伸びませんでした。しかし、そのかわりに伸びたものがありました。

経営会議で出る「声の数」です。

2027年11月、新体制で最初の経営会議。社長になった宮坂は、それまで役員だけで開いていたこの会議に、各工程の責任者たちも呼ぶことにしました。テーブルを囲んだのは14人。そのなかには、グルーの四十万と森岡の姿もありました。

来年の生産計画が議題にのぼり、薪ストーブの欄にさしかかったときです。

「例年どおり300台……」

資料を読みあげる声が終わらないうちに、製造部長の上條実(みのる)が手を挙げました。

「……そのストーブは、もうやめたほうがいい。」

上條は勤続20年。公一の右腕として、言われたものを言われたとおりにつくってきた人です。会議で自分から意見を言う姿は、これまで誰も見たことがありませんでした。

「毎年300台つくって、売れるのは100台ちょっと。残りは倉庫で冬を越す。しかもそのあいだ、本業のラインを止めて組み立てるんです。」

会議室が静まりかえりました。それまで、公の会議の場でストーブについて何かを言う人は誰もいなかったのです。そのストーブは、公一が自分の夢としてはじめた製品で、会社の名前を冠したブランドでもあったからです。

沈黙を破ったのは、グルーの四十万でした。

「上條さん、いつから、そう思っていましたか?」

「……十年前から、です。」

「今日、それを言えたのはなぜですか?」

上條は、少し考えてから答えました。

「半年前、百瀬が言ったからですよ。若いのが先に言ったのに、俺が黙ってるわけにはいかない。それからずっと、今までずっと俺は葛藤してきたんだ……。」


その日の会議で発言したのは、14人のうち11人。それまでの経営会議で口を開くのは、たいてい社長を含めた3人だけでした。その年の十二月に届いた最初の手紙には、この数字が書かれています。

翌年、山藤製作所は薪ストーブの生産を終えることを決めました。売上は8%落ちましたが、それでも、その年の配当は出すことができました。

なぜなら、やめた製品がもともと赤字だったからです。

場の声を聴いて関係性にかかわるスチュワードたち

スチュワード株を持つグルーは議決権、つまり会社の方針を決める票を持つ株主です。一方、山藤製作所の社員たちは、票を持っていません。

けれど、四十万と森岡が山藤製作所でいちばん時間を使ったのは、票を投じることではありません。むしろ、票を持たない人たちの声を、聴くことでした。

いつも二人一組で来るのも、そのためです。ひとりが話の筋道を進め、もうひとりが場で起きている「誰が黙ったか/誰が身を引いたか」を見る。役割は固定されているわけではなく、場の必要に応じて即興的に入れ替わります。決められた台本があるわけではありません。グルーはこのかかわり方を、「コーリード/コーコーチ(Co-Lead/Co-Coach)」と呼んでいました。

グルーのスチュワードである四十万と森岡は頻繁に山藤製作所の事務所にやってきました。専用の席もありました。とはいえ、ずっと居つづけるということもありません。彼らは別の会社のスチュワードも務めていて、そちらの会社にいることもあったそうです。

ですが、どの会社であっても現場でよく人と話し、重要な経営会議はもちろん、時には重要とみなされていないような会議にも、かかわる存在でした。

正解を与えずに対立を扱う

経営層や従業員と向き合うとき、グルーの二人はたいてい車座の正面に並んで座っていました。まるで生活まで共にしているかのような不思議な混ざりあいが、「コーリード/コーコーチ」と呼ばれるかかわりにありました。そのことは山藤製作所の誰もが感じていたことでした。

会議であっても、そうでなくとも、その場では出しにくい声、抑圧されている声や感情を、二人はひとつずつ丁寧に拾っていきました。

答えを口にするようなことはしません。対立を避けるようなこともありませんでした。かといって、ことさら歓迎するわけでもなく、対立もまた、関係が健やかだからこそ起きるインパクトのひとつとして扱っていました。


2031年11月、出資から5年目の、ある日のこと。

山藤製作所の営業と製造が、正面からぶつかったことがありました。発端は、30年来の取引先から入った大口の注文です。他社と競り合った末、営業の北原美咲は、いつもより2週間短い納期で受注を決めてきました。

「この注文を落としたら、あのお客さんとの30年が終わるかもしれないんです。」

製造課長になっていた百瀬は、首を横に振りました。

「その納期じゃ、検査を削るしかない。不良を出したら、それこそ終わりです。営業はいつも、現場を見ないで約束してくる。」

「現場はいつも、できない理由から話しますよね。」

議論は平行線のまま。会議室には、重い空気が漂いました。いつもなら、ここで誰かが「まあまあ」と収めて終わるところです。

けれどその日、四十万と森岡は、議論をその場で終わらせませんでした。かわりに、ぶつかっている二人にこう頼んだのです。

「百瀬さん。北原さんの言い分を、北原さんになったつもりで、言ってみてもらえますか。」

百瀬は、しばらく黙ってから口を開きました。

「……この注文を落としたら、30年の付き合いが終わる。そのことを、私はひとりで背負って、お客さんの前に立っている。」

そう言いながら、百瀬の声が少しだけ揺れました。次は北原の番です。

「無理な納期で不良を出せば、山藤の名前に傷がつく。それを毎日、最後のところで止めているのは、私たち現場だ。」

相手の言い分を、自分の口で言う。それも、お互いに。

議論は結局、3日にわたって続きました。たどりついたのは、北原と百瀬が二人で取引先へ出向き、納品を2回に分けてもらえないかと頼む、という答えでした。

結果として、取引先はそれを受け入れました。

百瀬は、のちにこう語っています。

「相手の立場に立つ、ということの本当の意味が、あのとき初めてわかった気がします。頭では知っていたんです。でも、相手の言葉を自分の口で言ってみると、からだのほうが理屈抜きで先にわかってしまう、忘れられない体験でした。」

報酬は三階建て

グルーのかかわりは慈善事業ではありません。報酬は、3階建ての設計です。

1階は、毎月の伴走料。
2階は、配当として受け取る年2%。投資家の8%と同じく、出資額に対する2%です。
3階は、業績がよく、投資家への配当が目安の年8%を超えた年に、その超えた分の一部を受け取るもの。いわば成功報酬です。

1階は、山藤製作所から見れば、ふつうの経費(販管費)です。ここだけで二人の人件費と移動費はまかなえていました。2階と3階は、会社が長く健やかに続くほど積みあがっていく構造です。

グルーが守ろうとしているのは、急いで大きくなることではなく、会社のアライブネス(生命感)です。まず人と人の関係があり、そのうえでアライブネスが溢れ出しつづけるようにするために、どうかかわれるか――。報酬の設計そのものに、その意図が込められていました。

山藤製作所に最初にかかわった、グルーの初代スチュワードの四十万と森岡は、計12年務めたのちに退きました。

スチュワード株は額面1円のまま、次の二人へ渡ります。売ることも、自分の子どもに残すこともできません。スチュワード株を持っていた12年のあいだ、その価格はずっと変わらず1円のままでした。


グルーの二人は、人と人との関係の健全性と、数字や戦略の正確性を同じ重さで天秤にかける「両天秤アプローチ」と呼ばれるかかわり方を現場で試し、何が起こるのかをみて、確かめながらつくりあげていくことに命を燃やしていました。
12年のあいだに二人がかかわった企業は、山藤製作所を含めて複数社。グルーにいた他の仲間たちもそれぞれ別の会社にスチュワードとしてかかわっていました。そしてユニークなことに、グルーがスチュワードを務める会社同士のあいだには、山藤製作所も含めて、定期的に交流する関係が生まれていました。

出資から37年、グルーから派遣されるスチュワードは、2代目が15年、3代目はいまちょうど10年目を迎えました。
担い手は代わっても、必ず二人で来る。

そのスタンスだけはずっと変わりませんでした。

投資家が持ち帰るもの

出資した御殿場兄弟社は、37年で出資額の3倍を受け取りました。

実は、売って回収する一般的な投資と、配当で受け取り続けるこの仕組みとでは、受け取り方そのものにも健全さの違いがあります。

一般的なファンドなどの投資家が、出資した会社を売却して10億円の売却益を得た場合、税を引いて手元に残るのは6.9億円です。

一方で、発行済株式の3分の1を超える持ち分の株主が10億円を配当で受け取るとします。すると、会社が受け取る配当には法人税がかからないしくみによって10億円はそのまま残ります。

税引前の金額は同じ10億円。それでも、売却益を得た場合と、配当で受け取る場合とでは、税引後に1.4倍の差が生まれるのです。

もう1つ、この37年で一度も起きなかったことがあります。

それは「売却先を探す」という作業です。一般的なファンドは出資者にリターンを返す必要があるために、どうしても期限付きになります。しかし、この仕組みは期限がありません。いつ上場するか、いつ売却するかを考える必要がないのです。

四半期ごとに業績を詰める必要もありません。この会社に対して投資家がしたことは、毎年配当を受け取ること、年に一度の十二月の手紙を読むこと、そして重要な会議に参加して何が起きているのかを見つめること。それだけでした。

37枚の厚みと受け継がれる想い

出資をした御殿場兄弟社に話を移しましょう。

この37年で変わったのは、山藤製作所だけではありませんでした。山藤で行われていた「まだ声にならない思いに触れる」という営みは、いつのまにか出資者である御殿場兄弟社の三代にも染み込んでいったのです。

2034年|出資から7年目

最初の数年間、創業者の聡は苛立っていました。わかってはいたものの、経営に口を出せない経済株の株主であることには、やはり歯がゆさがあったのです。

そんな思いを抱えたまま迎えた、2034年の全社合宿でのことです。10年前に閉じた「メッキ課」にいた人たちが、当時の胸の内を初めて口にしました。

説明もないまま別の工程に移されたこと。
そのときの気持ちを誰にも話せずにきたこと。

話しながら、元メッキ課の3人は涙を流していました。半日の予定だった全社合宿が終わったのは、その日の夜遅くのことでした。

その年の十二月の手紙には、合宿で泣いた人のことも、課の名前も書かれていません。そこにあるのは、次の一行だけです。

「10年前に終わったと思っていたことが、今年、本当の意味で終わり、閉じることができました。」


聡はその手紙を机の引き出しにしまい、何度も読み返していたそうです。

聡が亡くなったあと、引き出しから出てきた手紙の束のなかで、その年の一枚だけ紙が薄くなっていました。

その年から、御殿場兄弟社の役員会の議事録に、聡の一存で欄がひとつ増えました。「その日、発言しなかった人」という記入欄です。

山藤の手紙が毎年数えていたのは「発言した人」。御殿場兄弟社の聡が数えはじめたのは、その裏側にあるものでした。

何のためにその欄をつくったのか、聡ははっきりとは書き残していません。けれど、山藤で見たものを、聡は確かに自分の会社へ持ち帰ったのです。

2045年|出資から18年目

御殿場聡の長男、瞬(しゅん)。

出資が決まった年、瞬は31歳で、御殿場兄弟社の営業部にいました。山藤への出資のことは、父の道楽くらいに思っていたといいます。

2045年、瞬は76歳になった聡から、社長の座を継ぎます。瞬は最初、山藤への出資を整理するつもりでいました。議決権がなく、売ることもできず、配当だけが入ってくる。企業財務としては、説明しにくい資産だったからです。

2047年|出資から20年目

その気が変わったのは、それから2年後。20年目の全社合宿でした。この年、山藤製作所では宮坂が社長を退き、百瀬が後を継いでいました。20年前、あのワークショップで「5年前から、言えずにいたことがあります」と立ち上がった、あの班長です。

社長として迎えた最初の合宿で、百瀬が議題に挙げたのは19年前にやめた薪ストーブのことでした。

「あのストーブをやめると決めたのは、宮坂さんです。でも、その話を言い出したのはわたしです。わたしがあの日、あんなことを言わなければ、山藤さんの夢は終わらなかったかもしれない。そのことを20年ずっと、誰にも言えずにいました。」

会場には、88歳になった公一の姿もありました。

宮坂が、退任のあいさつのかわりに口を開きました。やめると決めたのは自分であること。赤字だったから、というだけではなかったこと。

「誰かが止めなければ、この会社はいつまでも先代の夢の中にいることになる。あのとき、恨まれるなら自分がいいと思ったんだ。」

長い沈黙のあと、公一が言いました。

「止めてくれて、ありがとう。あの日、班長に言われたとき、本当はわかっていた。わかっていて、わたしには止められなかった。」

20年前のワークショップで公一がひとことも発しなかった、その答えでした。

その年の十二月の手紙に、百瀬はこう書いています。

「なぜやめたのか。それを、やめた本人の口から聞いた。はじめた本人の言葉を聞いた。だから、わたしのなかでも本当に終わりにすることができた。」


壁際の椅子で、瞬はそのすべてを見ていました。

数字の上では、山藤への出資は説明のしにくい資産です。けれど目の前で起きたのは、19年前にやめた製品のために会社じゅうが一日を使うことでした。
利益のためではなく、誰かの胸の中でまだ終わっていなかったことを、終わらせるために。

瞬にも、終わっていないことがありました。父の出資を道楽だと決めつけてきたこと。そして、なぜ出資したのかを一度も父に聞いたことがなかったこと。

その夜、瞬は聡に電話をかけました。

「自分にも、まだ父さんに話し終えていないことがある。今を逃したら、いけない気がして。」

電話は、二時間続きました。

瞬が打ち明けたのは、出資を整理しようとしていたこと。

そこで聡が語ったのは、あの40秒のことでした。

瞬は、出資の整理を思いとどまりました。

聡が80歳で亡くなったのは、その2年後のことです。

2048年〜

山藤で見たものを自分の会社へ持ち帰ったのは、聡だけではありませんでした。瞬もまた、御殿場兄弟社で役員だけの合宿をはじめます。

3年目には、社長である自分ひとりで場を仕切ることをやめました。4年目からは、グルーにコーリード/コーコーチを頼むようになり、その窓口を、経営企画部の若手社員である早瀬結(ゆい)に任せました。

山藤のやり方が、少しずつ、御殿場兄弟社の中にも根づいていったのです。

2057年|出資から31年目

2057年の秋、二代目の瞬から社長を継いだのは、息子の御殿場響でした。冒頭で、あの通知に判を押した人です。

出資が決まった年、響はまだ2歳でした。山藤のない御殿場兄弟社を、響は知りません。

社長になった最初の夜、響は30枚になっていた十二月の手紙を一晩で読み通しました。

どの手紙にも、売上の目標は一度も書かれていません。書かれていたのは、その年にやめたこと、会議で発言した人の数、そして毎年書かれている同じ問い。

「まだ言えていないことは、ないだろうか?」

「残っている」と正直に書かれた年も、少なくありませんでした。

読み終えたとき、響は思いました。

「うちの会社には、この問いがない。」

翌年から、響はみずからオブザーバーとして、山藤の合宿へ通いはじめました。その隣にはいつも、グルーとの窓口を務める、経営企画部の早瀬の姿がありました。

2060年

通いはじめて3年目。響は、3代目のスチュワードである児玉湊(みなと)と風間凪(なぎ)から「今年は輪の中に入りませんか」と誘われました。

響は、いつの間にか自分の会社のことを熱く話し、気づけば涙を流していました。ふと顔を上げると、山藤の人たちの頬にも、熱いものが流れていました。

響は御殿場兄弟社に戻るとすぐ、山藤と同じ手紙をつくりはじめました。1枚目に書いたのは、次の言葉でした。

「うちには、まだまだ聴かれていない声、なかったことになっている感情が、たくさんたくさん、山ほどある。そのことを恐れる必要はまったくない。それは希望だ。」

2064年3月

そうして時は経ち、2064年3月を迎えます。
山藤製作所に、一通の通知が届きました。

差出人は、37年前に同社へ出資し、株式を持ちつづけてきた御殿場兄弟社。判を押したのは、創業者の孫である御殿場響です。

「貴社の経済株について、これまでにお支払いいただいた配当の累計額が出資額の3倍に達し、当初の取り決めで定めた条件を満たしました。本日をもって、当社が保有する経済株は、無配当・無議決権の劣後株式に切り替わります。」

余計なことは書かれていない、端的で事務的な一枚でした。
なぜなら、書くべきことは、すべて37枚の手紙に書かれていたからです。

2064年、その後

山藤製作所のスチュワードは、いま3代目のコーリードを務める児玉湊と風間凪が担っています。
スチュワード株は、退任のたびに額面1円のまま、次の二人へ渡されてきました。この日、児玉と風間は、初代の四十万と森岡がこの工場に初めて来た日の記録を読んでいました。そこには、グルーによるワークショップの日の休憩室の掛け時計のことも書かれていました。
時を超えて受け継がれてきた何かが、いまの山藤に、役目を終えた御殿場兄弟社に、そしてグルーに共有されている。二人はそんな不思議な想いに包まれました。

この日は、ほかにもいくつものことが同時に起きました。
御殿場兄弟社は金銭的な出資者としての役目を終えました。経済株は無配当・無議決権の株に切り替わり、配当を受け取る権利は消えました。約束どおりの「卒業」です。
会社の議決権は従業員持株会へと渡りました。37年のあいだ票を持たなかった社員たちの声が、この日、ついに票になったのです。
社名と理念、そして「売らない」という約束を守る黄金株は、公一が91歳で亡くなった2050年、取り決めどおりにスチュワードの手へ渡っていました。社名と理念を守る最後の砦は、これからも山藤に伴走していく者に託す、という選択です。
山藤という名前は残りました。けれどもう、山藤家のものではありません。そこで働く人たちのものです。それは37年前、公一が願っていた景色でした。

そして、御殿場兄弟社は37年かけて経済株から受け取ってきた配当を元手に、新たな会社に投資することを決めました。その会社でスチュワードとして立つのは、グルーから一人と、御殿場兄弟社の早瀬の二人です。

早瀬は、瞬の時代からグルーとの窓口を務め、響とともに山藤の合宿に通い続けてきた人です。今度は御殿場兄弟社が、二人一組の片方を担うのです。

響が判を押しながら言ったとおり、ここからは、手渡す番です。

誰かの金銭的な成長を促すために山藤製作所が利用されることは、ついに一度もありませんでした。ここから先は、スチュワードと持株会を構成する従業員たちが、進む道をその瞬間ごとにみずから選んで決めていく、長い長い旅路がはじまります。

そして、それを見守り、いままた次の会社とともに歩き出した投資家の旅も、時代を越えて続いていくのです。

休憩室の掛け時計は、いまも同じ場所で秒針を刻みつづけています。

この物語の株式の設計と、まだ決まっていない論点は、売却しない資本の提供 (構想) にあります。

車座の正面に並ぶ2人が実際に何をしているのかは、コーリード / コーコーチ にあります。

友情編集 = 金子 樹実明

初版発行 9/6
第二版発行 9/7
改訂新版発行 10/16