中国軍人と日本人看護婦の60年の時を越えた恋愛物語

 

その時、あなたが再び私の前に現れた。

月下美人のような一時の幻のように。

純粋な美の精神のように。

そして私の心は狂ったように踊り出す。

そしてすべてが再び蘇る。

焦がれる気持ちがあれば、詩に精神が宿る。

生命があれば、涙が流れ、そこには愛がある。

 

これは、ロシア文人Aleksandr Sergeyevich Pushkin(アレクサンドル・プーシキン)が描いた愛情の詩です。60年前のプーシキンの愛に関する詩には、中国と日本の若者が行う交流は、その貞操観念に基づいた愛として描かれています。彼らのラブストーリーは前世紀から去年まで延々と連なっていて、そこで描かれた二人は同じ墓に入り、今後も永遠に一緒なのです。

 

これは、日本人女性である溝脇千年と当時の中国軍人の杜江群の間で育まれたラブストーリーです。2014年6月、溝脇千年の遺骨は日本から武漢に移送され、扁担山の墓地で、一生愛した相手である杜紅群と一緒に埋葬され、彼女の夢が叶うこととなりました。

 

「私たちは扁担山墓地に行き、溝脇おばあちゃんと存宝(杜江群の別名)お爺ちゃんの礼拝を行いました。」2015年3月29日の午前、霧雨のぶ感にて、杜江群の兄弟の孫たちとその家族は二人のために献花をしました。礼拝が終わり、彼らが一緒に撮った写真は武漢の家族たちがメンバーで入っているwechatグループに送られ、皆感慨で胸が一杯になりました。

 

溝脇千年と杜江群が共に埋葬された墓石には、溝脇女史を記念する文章として、「1944年日本から中国の東北地方に来てからの10年間、中国人民解放軍の看護婦として従軍、南下作戦に参加し、解放戦争と平和の建設に参加した。その間に軍人であった杜江群と相思相愛の関係となった。生前に遺書として遺骨のいち部分を中国に送り、杜江群と一緒に埋葬されることを望んだ。」と記されています。

 

この平和な物語の背景には、半世紀を貫く情景が流れています。

 

日本国籍の看護師と教師との出会いは治療所だった

1944年当時まだ16歳になろうとする溝脇千年は中国東北(満州)にやってきました。そして、中国の人民が何を経験しているのかを見ようとして、中国共産党が指揮する八路軍に参加。すぐに日本軍が降伏するも、彼女は日本に帰還することはありませんでした。

 

彼女は八路軍の一員として南下作戦に参加。1952年の夏、彼女と7名の日本国籍の看護師は、広西チワン族自治区の南寧軍区303病院を経て、湖北省羊楼洞部隊の治療所にたどり着きました。羊楼洞は当時の交通の要衝であり、正にここで溝脇千年は当時結核病を患って治療されていた杜江群と出会ったのです。

 

赤壁の近く、羊楼洞
赤壁の近く、羊楼洞

 

29歳の杜江群は学校で政治学を教える教師で、共産党の地下活動を行った経歴を持っていました。当時、病人の中で外国籍の看護師に対して辛くあたる人は少なくなく、その態度は極めて粗暴なものでした。怖がり、慌てる溝脇千年の様子を見た杜江群はすぐに立ち上がり、態度粗暴な病人をなだめ、彼女が安心して治療にあたることができるようにしてあげました。

 

二人の若者の恋の火花はここで正に生まれ、その後彼と彼女は一緒に散歩をし、語り合い、感情の温度は徐々に高まっていきました。杜江群の結核は時には収まるものの、時には苛烈を極め物凄い高熱が出ることもありました。当時の洋楼洞には水がなく、冷やして熱を下げるという物理的な方法をとることができませんでした。この状況に非常に慌てた溝脇千年は、その後少ない蓄えの中からお金を出して水を買い、彼の熱を冷ますようになりました。

 

一度の分かれが永遠の別れに

甘い時間は長くは続かないものです。1953年、溝脇千年は湖北省の襄陽軍区に配属が変わったのです。 別れの日の朝、彼女は花の刺繍の入ったハンカチと枕カバー、水彩画が描かれたハガキを杜江群の枕の下に忍ばせて、旅立っていきました。

 

1954年の下半期、溝脇千年は襄陽から武漢の東湖の病院に移されました。この時、杜江群の病状は極めて重くなっていたのですが、溝脇千年も日本の家族から帰国の催促を受けているところでした。彼女は杜江群に手紙を書き、母親が彼女を探しており、父親と兄が戦争で亡くなってしまったこともあり、母親が一人で3人の娘の面倒をみることが難しく、彼女に帰ってきて欲しいと言っていることを伝えました。しかし、溝脇千年はその時点でも迷っており、杜江群を忘れることができず、帰国をためらっていました。

 

手紙を受け取った杜江群は深刻な気持ちになります。彼は若い娘の愛を捨てることはできません。しかし、自分が身勝手になるべきではないと思ったのです。彼は彼女に、「あなたの幸せと家族のために、絶対に帰国をしなさい!」と手紙を書きました。

 

八路軍

 

1955年、溝脇千年は日本に帰国しました。病状が深刻な杜江群でしたが、担架に担がれて武漢の港までやってきて、彼女と名残惜しい別れを遂げたのです。そして、彼も彼女もこれが永遠の別れとなるとは思ってはいませんでした。

 

彼女が帰国した後、二人は手紙でのやり取りを続けましたが、そこに綴られるのは離れても愛しあう二人の苦しい想いでした。しかし・・・、1956年、彼女が武漢を離れて1年後に、33歳になっていた杜江群の病状は更に悪化し、この世を去ったのです。

 

一生、諦めることができない想い

一度の別れは永遠の別れとなりました。溝脇千年はこの中国大陸での邂逅を忘れることはできませんでした。常に思い出されるのは杜江群に点滴をしてあげる場面です。この感情を携え、彼女はその後一生結婚することはありませんでした。

 

杜江群の姪の欧阳蔚怡は1980年代に日本に留学し、一年間溝脇女史と一緒に生活をしました。2014年に、彼女は合同埋葬のために武漢に戻り、微博(マイクロブログ)上に彼女が覚えている溝脇女史の記憶を今回の合同埋葬を含めて記録しました。

 

欧阳蔚怡の記録によると、杜江群が病でこの世を去った後、溝脇千年は客間に杜江群の写真を飾り、毎日彼に食事を作り、お供えをしていたそうです。命日には特別にお粥を炊いたそうです。杜江群の最期の時、彼はお粥しか食べることができなくなっていたからです。

 

欧阳蔚怡は溝脇千年に杜江群から届いた手紙を見せてもらったそうです。杜江群がこの世を去る直前、震える筆跡、別れを告げる文章は涙なしには見られないものだったそうです。これほどまでに強烈な感情、情感があった二人だからこそ、溝脇千年はその後、誰も受け入れることができなかったと言えるのかもしれません。

 

30年の間を歴て海を渡ってあなたに会いに来た

彼女は杜江群との約束を護り、1987年、中国を離れてから32年の時間を歴て、想い出の地を訪れました。杜江群の生前の戦友である王家騄と連絡をとり、杜江群の妹、すなわち欧阳蔚怡の母親である庹友生と面会し、杜江群と同じお墓に入りたいとの希望を伝えました。しかし、様々な理由があり、杜江群の墓がどこにあるのかが分からなくなっていました。溝脇千年と二人は相談し、この三人でお墓を建てることにしたのです。1988年、お墓が完成し、溝脇千年は日本から白い蘭の花を送りました。 庹友生は陶器で杜江群と溝脇千年の像を作り、そのお墓に奉納したそうです。

 

2012年、溝脇千年は83歳でこの世を去りました。彼女は生前に、遺骨の一部を中国に送って埋葬して欲しいと遺書に書いていました。欧阳蔚怡は日本に渡り、信託を受けた老人から遺骨の一部を中国に持ち帰りました。二人が実際に会うことがなくなって60年、彼女は杜江群が既に年老いた溝脇千年のことが分からないかもしれないと思い、彼女の小さい頃から今に至るまでの写真と、二人が取り交わした手紙を持ち帰り、一緒にお墓に埋葬しました。

 

欧阳蔚怡の記録によれば、溝脇千年が大切に保管していたノートは、当時杜江群が彼女にプレゼントしたものでした。ノートの中には、二人が取り交わした言葉、友人や家族の写真、更に溝脇千年が中国語で描いた愛の詩がありました。溝脇千年が中国を離れることになった時、貴重品は一切持って帰ることはできませんでした。30年後に一時的に中国を訪れた際にこのノートを手に入れることができ、その後大事に保管されていたのです。

 

扁担山墓地では合同埋葬を行う際には、二人の証明が必要となります。しかし、もはや二人を証明するものはありません。そこで、欧阳蔚怡は墓地の管理所に手紙を書きました。そこには、二人の出会いから別れまでの物語と、このお墓に共同で埋葬されることになったいきさつが記されていました。 そして、管理書は二人を認めることにしたのです。

 

2014年6月、欧阳蔚怡は溝脇千年の遺骨と遺品を持って武漢を訪れました。そして、墓碑を改め、遺骨と遺品を埋葬しました。そうして、60年の間離れ離れであった二人はとうとうひとつに結ばれることになったのです。これが現実に起こった物語のエンディングです。彼らは半世紀以上の間離れ離れでしたが、彼女の強い想いがあったからこそ、永遠に一緒に手を繋いでいることができるようになったのです。

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