110歳の誕生日を迎えた漢語ピンインの父、周有光のコスモポリタン人生(第2回)

(第1回めに続く)

「漢語拼音方案」の制定

1955年10月15日から23日にかけて、中国教育部(日本の文科省にあたる機関)と、中国文字改革委员会(以降「文改会」と略す)が北京にて、第一回目の「全国文字改革会議」を開催しました。周有光はそこに招待されました。文改会は中国国務院(中国政府において重要な機能を統括する行政機関)直属の機関で、中央委員は呉玉章が主任、胡愈之が副主任でした。この機関は、現在の「国家語言文字工作委員会」の前進です。胡愈之が任命された後に、周有光は北京で文字改革の仕事を引き受けることにしました。

文改会が設立された後、その傘下に第一、第二研究室が設置されました。第一研究室はピンイン化の研究を、第二研究室は漢字の簡略化を主に担当しました。周有光は第一研究室の主任に任命され、そこでの最大の成果が「漢語拼音方案(1958年2月11日に第一回全国人大五次会議で法案成立)」でした。この研究で成果を出すためには、世界の文字について研究をする必要がありました。

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周有光は世界各地の文字を研究し、「語文知識」という雑誌上にて、様々な文字についての研究内容を発表し続けました。この成果はその後、「字母的故事(文字起源についての物語)」という1冊の書籍にまとめられ、文字の起源についてわかりやすく紹介がされています。周有光の結論は、ラテン文字が最も優れているというものでした。ラテン語は技術的観点から優れており、かつ社会的角度から見ても、伝わりやすさという観点で最高であるという判断です。

当時、ソ連は「スラブ文字化」の中でラテン語を否定することを推進していました。周有光たちが漢語拼音方案を研究する際に、ソ連の語学研究者からしきりにラテン語の研究をやめるように言われました。その後、ソ連政府の教育部が北京を訪れ、当時の副総理であった陈毅に対してロシア文字の採用を提案し、文字における「中国ソ連の連盟」を提唱しました。陈毅副総理はソ連教育部に対し、「中国は東南アジアとコミュニケーションする必要があります。東南アジアではロシア語が分かる人間はおりません。ですから、ラテン語を用いることで彼らに対して、(共産主義の)宣伝・普及活動をしようと思います」と述べました。

3年の年月、多方面からの研究により、1958年、修正草案が「漢語拼音方案委員会」を通過し、よりハイレベルの「漢語拼音方案審査委員会」が設立されました。この委員会の審査を通過し、全人代を通過することで、1958年に正式公布、小学校を中心として普及活動に入りました。

1972年6月、村野辰雄(三和銀行第五代頭取)という名の日本人が周有光を訪ねてきました。彼は日本の三和銀行の総裁でした。彼は周有光に、「彼は1920年台に、日本でローマ字の運動を行っていました。退職したら全力でローマ字の普及運動をやろうと思っています。そのために、あなたに会いに来ました」。その後、日本では「日本ローマ字会」という文字改革団体が結成され、その中心人物により、周有光の「漢字改革概論」が日本語に翻訳されました。

「漢語拼音方案」が国際標準に

「漢語拼音方案」は、宣伝活動において、2つの関門を突破する必要がありました。ひとつは、当時、連合国地名国際標準化会議は、世界各国に対してローマ字地名の標準を提出するように呼びかけていました。当機関には、台湾が代表として初めて参加し、その後中国大陸として参加することとなりました。中国大陸の代表が参加した後に、「漢語拼音方案」を提出しました。1977年地名国際標準化会議を通過することに成功し、ピンインは国際化に向けた第一歩を記したのです。

次の関門はIDO国際標準化組織でした。この機関の一部門にTC46と呼ばれる部門がありました。TCとは技術委員会のことで、この部門の研究内容には文字についての研究が含まれていました。当部門は中国に対して、中国の標準言語はなぜローマ字を使って発音記号としているのかの理由の提出を求めました。

1979年に、周有光は、パリで開かれる国際標準化組織の会議に向かいました。この会議は予備会議であり、各国の代表が集まって議論をした結果は、正式会議で批准されるというものでした。周有光は2つの論文を準備しました。ひとつは、「漢語拼音方案」の歴史的背景を論ずるもの、もうひとつは、「漢語拼音方案」の技術的特徴を説明するものでした。2つの講演を行った結果、全員の賛同を得ることに成功したのです。そのうち一人が、「この会議は、あなたのような方が来てこそ成果がでるのです。過去にも中国語の文字に関する会議は数多く行われてきましたが、上手く行かなかった理由は、説明が不明確で、参加者がこの議論についての問題を正確に理解することができなかったからです」。

ピンインについての全員の賛同を受け、TC46では「漢語拼音方案」世界標準として用いることに同意しました。この議論をベースに、TC46の秘書が草案を起こし、次の会議において再可決を実施する段取りとなりました。参加者はみな、中国で会議をしたことがないので、次回は中国で会議をやりたいという希望を示しました。周有光は承諾する気持ちでしたが、すぐには答えず、帰国して政府に報告し意向を伝えることを伝えました。

帰国後、中国政府は長い間回答を避け、1981年にようやく南京にて会議を行うことで合意しました。会議では草案を用いて、「漢語拼音方案」がどのような内容で、なぜ国際標準にする必要があるのかということを説明しました。草案はその後、TC46理事会を通過した後に、更に多くの国で審議され、信任投票が行われた結果、国際標準として認められます。

結果、1982年にようやく「漢語拼音方案」が国際標準として認められました。投票で可決され国際標準となった後に、ISO 7098というコードが付与されました。

周有光のこの件に関する発言は次のようなものでした。「この案件は、外交的な問題としては非常に小さなことで、ただの技術に関する仕事に過ぎませんが、文化的角度から見た場合は小さくない出来事です。中国は国際ファミリーの一員として認められるためには、中国の言葉、文字が海外の言葉や文字と簡単に変換される必要があります。ローマ字を使わない限り、解決ができない問題でした。ローマ字ピンインがあれば、外国人はIT上で中国の出版物を探しだすことができますし、本の名前や著作者名などからでも見つけることができます。「漢語拼音方案」が国際標準になるということは、中国と海外の文化の架け橋がひとつ出来上がったということなのです」。

1982年以降、中国国内の人名、地名については、普遍的に「漢語拼音方案」が採用されました。1983年、ハワイにて「華語現代化」国際会議が開催され、式上にて、周有光は「漢語拼音方案」を紹介し、既に国際標準を取得したことを説明しました。これには台湾地区代表に強いインパクトを与えました。台湾代表は、台湾に戻った後に、3年の時間をかけて、従来から使っていた国語ローマ字を「注音符号第二式」に改造しました。この「第二式」と「漢語拼音方案」は非常によく似ています。わずかな部分だけが異なっていました。

言葉を通して世界に橋をかける

「漢語拼音方案」の制定作業、いわば文字の改革という仕事を成し遂げた1980年台、周有光は香港の大学でのスピーチを行い、ハワイの国際会議に参加し、アメリカ各地を旅行しつつスピーチを続けました。その中で、再びニューヨークを訪れることになりました。当時、アメリカは既に数十の大学図書館においてネットワークに繋がれたコンピューター端末が設置され、それを使って図書館の資料を手軽に検索できるようになっていました。周有光はこれには驚きました。また、彼はニューヨークで米国民が大統領選挙で電子投票を行っていることも知りました。1985年の新年を、周有光夫妻はニューヨークで迎えました。この間、彼は、漢学家の傅汉思とその生徒と一緒に食事をする機会を得ました。学生は「江青同志」の編纂過程ということでした。

頻繁に入出国を繰り返し海外との交流を行ったことで、周有光は海外についての正確な認識を得ることになりました。1949年以前のアメリカ、欧州でのビジネス、旅行の経験から、欧米のこの数十年の劇的な変化を目の当たりにすることになりました。一方で、中国は「大躍進政策」や、「文化大革命」などの運動の中で、生産能力以外にも多方面で多大なダメージを受けている最中です。自らは寧夏57千校に派遣された経緯も相まって、周有光は中国と世界との差について、更には両者の間での関係性について深く考えるようになりました。

周有光の考え方が全く間違っていないとはいいません。しかし、歴史学者である秦晖は、周有光の著作は本当に高水準のものが多くあり、109歳という高齢にも関わらず、依然として青春を謳歌しているように見えると言っています。「彼は我々と比べれば本当に若い。現在社会におけるパラドックスは、多くの若者がミイラのように見えるということです。我々にとって最も避けたいことは、若者がまだ壮健な年齢にも関わらず、棺桶に片足を突っ込んでいるような状態です。しかし、周有光さんは、彼の言葉がますます人を感動させるように、ひとりの熱血青年なのです」。